Plusわんっ! / 欅
「なにも、こんな季節に壊れなくても良いのにな、ウチの風呂も」
梅雨空が絶え間なく降らせる絹糸のような細い雨の中を、鮮やかな赤い色の大きな傘の下、一組の男女が寄り添うようにゆっくりと歩いている。
ぼんやりとした街灯の明かりに照らされて暗い夜の中灰色に煙っている世界の中で、そこだけが鮮やかな色彩を有していた。
「うーん、でも私はちょっと楽しい、かな?」
指先を口元に当てると、女性は天を仰いで何か考えるような仕草をしてみせた。子供っぽい仕草だが、何故か違和感がない。
「どうして?家から銭湯まで、結構歩かなきゃいけないだろ?ユリカ、少し濡れてるじゃないか・・・」
隣を歩く女性―ユリカに労わるような視線を向けた青年に、ユリカは悪戯っぽい視線を向けると、
「だって、アキトと二人でこうやって相合い傘が出来るんだもんっ!!」
軽やかな囀りと共に、腕を絡めた。
足元で水が僅かに跳ねたが、それさえ彼女の幸福に呼応して踊っているようだ。勿論水が踊るわけはないから錯覚なのだが、そんなことは今現実の彼女の幸福には全く関係ない。
「な、なに言ってるんだよ・・・。相合い傘なんてそんな、喜ぶほどのものかよ。俺達ふ、夫婦じゃないか」
とても自分よりも年上とは思えないほど幼げに感じられるユリカの物言いに、アキトは大人の男の余裕で素っ気無く返そうとしたようだったが、真っ赤に上気した顔と詰まり詰まりの言葉は全く本人の意図を裏切ってしまっていた。
「じゃあ、アキトは、嬉しくないの?」
答えは言われなくても判っているだろうに、ユリカはアキトの瞳をじっと覗き込む。
「う、それは・・・」
見たものを石に変えるというメディウサと見詰め合ってしまったかのようにアキトは硬直した。
アキトはユリカのこの眼に弱い。
彼の心の全てを映し出されてしまうのではないかと思うくらい、大きな、深く澄み切った、じっと見つめていると吸い込まれそうな錯覚を覚える瞳だ。
「わ、わかるだろ?言わなくたって・・・」
「・・・・・・・・・」
尚もじっと見つめるユリカ。
この大きな目を瞬き一つせずに、痛くないんだろうか。などと場違いな疑問がアキトの脳裏に浮かぶ。
ついでに、表情には真っ赤に照れが浮かんでいた。
「だ、だからだな」
「・・・・・・・・・」
この他愛のない質問に深い意味も無いなら、まだアキトも気軽に応対できるのかもしれない。しかし、ユリカはいつでも全力で想いをぶつけてくる。だからこそ、どぎまぎとしてしまうのだ。
彼女は本心からその答えを求めている。
「その・・・」
「・・・うん」
優しい、心地良い囁きが、心に木霊してつまらない照れを溶かす。
「・・・う、うれしい・・・よ・・・・・・」
覚悟を決めて答えを返し、しかし途端に顔を更に赤く染めて目を逸らしてしまうアキト。
「ふふふっ・・・」
心底嬉しそうに笑うと、ユリカは一層アキトに寄り添った。
傘を持つ方の腕にそっと指を絡ませる。
「ば、馬鹿、あ、あんまり恥ずかしいこと言わせるなよ」
「だって、うれしいんだもんっ。えへへ・・・」
少しだけ乱暴に言ったアキトの言葉を気にもせず、その本心を直接覗き込むような眼で、更にアキトの顔を見つめる。
「・・・」
「・・・」
しばし無言で見詰め合う。
沈黙さえ、ふたりの胸には心地良かった。
「ほ、ほら、もういくぞっ。湯冷めしちゃうじゃないか」
何時の間にか立ち止まっていたようだ。それに気付いたアキトが少し大股で歩き出した。照れているのが傍からみても良くわかる。
「うん。いこっ」
満面の笑み。
付き合い始めたばかりの幼い初々しいカップルのようにも見える二人が再びゆっくりとしたスピードで歩き出すと、足元で弾けた水玉が小さく謳い出した。
街灯の明かりを受けた小さな水溜りが、そんな二人の穏やかな世界を映し出していた。
今の二人の住まい――ラーメンの貸し店舗と住居が一緒になった小さな一戸立て――から銭湯へは小さな神社の境内を横切るのが近道だ。
三十段程の石段を上ると両側に石灯籠が並んだ短い石畳が続き、今度は十段足らずの石段が現れる。それを上ればこの神社の本殿、というにはそれは余りにも小さなものだが、だった。
昼間なら慣れ親しんだ光景も、深夜となると話は別だ。
夜の静寂の中で仄かな灯篭の明かりの中に浮かぶ神社というのは、普通なら深夜に通るには少し気味が悪いものかもしれない。が、二人はそんなことは気にも止めずに歩いていた。
きっと、あまり普通の夫婦ではないからだろう。
・・・ぅぅぅ
暫く心地良い沈黙のなか歩いていたユリカの耳にそんな声が聞こえてきたのは社殿の横を通って裏の林に差し掛かろうかという頃だった。
十メートル程先に常夜灯が一本立っているだけで、二人がいる辺りには周囲を囲んだ森の木々から幾つもの深い影が落ちている。
「・・・なにか言った?アキト」
「いや、別に?」
「そう?」
・・・ぅぅん
「・・・なにか聞こえない?」
「風の音じゃないか?」
「風なんて、そんなに吹いてないよ?」
「うーん、木の葉が擦れてる音とか」
「そんな感じの音じゃないと思うけど・・・何か啜り泣きみたいな・・・」
足を止めて辺りを見回すユリカ。薄気味が悪いとかそう言った感じではなく、その様子からは寧ろ好奇心がありありと伺えた。
・・・ぅぅぅん
「ほら、やっぱり」
「ああ、なんだろうな・・・」
二人して辺りをきょろきょろと見まわす。
「あっ」
社のほうを見ていたユリカが突然声をあげた。
「どうした?」
「ほらそこ」
前方の縁の下を指差しながら、ユリカは既に歩き出していた。アキトも一瞬のタイムラグの後、歩き出す。
社殿の縁の下にあったのは、吹き込んだ雨に濡れてややふやけた感のあるダンボールだった。その中から、二つの眼が辛うじて覗いている。
先程から聞こえている弱々しい声の正体はこれだった。
「捨て犬だよ、アキト」
「ああ、まだ仔犬みたいだな・・・」
いち早く屈み込んだユリカの方に余計に傘を傾けながらアキトもしゃがみ込むと、縁の下のダンボール箱をずりずりと引き摺り出した。
「くぅぅん・・・」
ダンボールの中には気持ちばかりの、もはや毛布と呼ぶのも憚られるような布切れと、かつては何か液体が入っていたのだろうと思われる乾燥した小さな欠け皿が入っていた。
行きには気付かなかったが、布切れには排泄物が付着していたし独特の埃っぽい匂いからすると、どうも、捨てられたのは昨日今日では無い様だ。
「こんな、ほんの仔犬なのに・・・」
同じ捨てるにしてももっと人目に付きやすい所にすれば良いのに、そんな想いが言外に潜む。
例えそうしたからといって、捨てるという行為自体の無責任さには変わり無いのだが、弱々しく、しかし精一杯鳴いている仔犬の姿を見るとそんなことを思ってしまうのだろう。
「・・・・・・・・・ねえ、アキト、この仔・・・」
「ユリカ、ちょっと傘持って」
ユリカは意を決して切り出そうとした言葉を遮られて一瞬悲しそうな表情をしたが、すぐにその顔を隠しようの無い喜びが覆い始めた。
少し考えるような仕草をしていたアキトはユリカの方に傘を差し出すと、ごそごそと手荷物を探るとタオルを取り出し、しきりに自分の存在を訴えている仔犬を包み込み、その胸元に抱き寄せたのだ。
「アキト・・・」
「こいつ、ウチで飼ってやろう、だろ?」
「アキトぉ・・・やっぱりアキトだねっ。だから好きっ!」
抱きっ。
「っとと。きゅ、急に抱きつくなよ」
照れたように取り繕うと、アキトはまじまじと仔犬を見つめた。
あらためて見ると、薄暗い所為もあって正確な色は良く判らないが白っぽい毛色をした長毛種の、それもまだほんの仔犬なのだろうという事がなんとなく判る。
大きな垂れた耳と仔犬ながらふさふさした豊かな尻尾が何処となく愛らしい。
何よりも、優し気な綺麗な目をしていた。
捨てられたという自らの境遇を知ってか知らずか、つぶらな瞳で、交互に二人を見詰めてくる。幼児特有の、どこか一途な感じがする視線。
「やっぱり痩せてるね・・・」
少し気遣わしげな表情で傍らのユリカが呟いた。確かに、抱きかかえたタオル越しの感触も重さも、頼りない印象を受ける。
「家に来るか?お前・・・」
アキトが仔犬の目を覗き込むようにして言うと仔犬はその言葉を理解したのか、小さな舌を出してそっとアキトの手を舐めた。
多分アキト自身の主観の問題だ。或いは自分の過去を重ねているのかもしれない。
しかし、この天涯孤独な生き物に見詰められた時、アキトはこの小さな生き物が何かを訴えているような気がした。
自分の腕の中でこの生き物が小さく震えているのは寒さよりもむしろ、不安からではないのか。そんな気がしたのだ。
「よーしよし。もう大丈夫だぞ。心配しなくていいからな」
「そうそう。これから私達家族だから、ね?」
アキトがごしごしと仔犬の頭を撫でるとユリカもその大きな耳を指先で弄りながら明るく呟いた。
「くうぅぅん」
返事をするように仔犬が鳴き声を上げる。
そんなこんなで、テンカワ家には新しい同居人が出来た。
HAPPY Family Project
Plus わんっ!
まだそれほど油煙にくすんでいないメニューの張り紙、紺地に白で『天河』と染め抜かれたまだ新しさの残る暖簾、店舗の前の持ち主の代から使われている、そちらは年季の入ったカウンターにテーブル。
新旧渾然となって不思議な雰囲気を醸し出している店内には、その主人に相応しい若々しい精気が漲っている。
その日、丁度夕食時の一番混む時間帯を過ぎたところで幾人かの客が料理を食べているだけの店内に、落ちついた雰囲気の柔らかい声が響いた。
「こんばんわ」
「あ。いらっしゃい、ルリちゃん!」
「ルリちゃん。元気だった?」
もう一人の家族が数日ぶりに尋ねてきたのは、テンカワ家に仔犬がやってきた二日後のことだった。
ルリは今色々あって宇宙軍の宿舎で一人暮しをしている。オモイカネという友達と別れたくないという事情もあり、ルリは宇宙軍に在籍したままになっていたのだ。
「暫くぶりですアキトさん、ユリカさん」
笑顔で言うと、ルリはいつものカウンター席に腰を下ろした。
「本当に久しぶりだよー。どうしてたの?お仕事忙しいの?」
ルリの前にお冷を置きながらユリカが尋ねる。
「ええ、新しく来た後輩の子にイロイロと教えなきゃ行けないことがあって」
言いながらも、それほど疲れた様子はなく、寧ろルリはどこか楽しげだった。
「へぇー、ルリちゃんにも後輩が出来たんだぁ。それじゃ大変だね。オモイカネも意外と気難しい所あるし」
感心したようにユリカが言った。
「ルリちゃんなら、いい先生になってるんじゃないか?ユリカと違って」
「ううっ、ひどいよアキトぉ。ユリカだって頑張ってたのにー」
からかいの笑みを含んだアキトの言葉にじゃれ付くように返すユリカ。ルリは微笑みながらそんな仲の良い夫婦を眺めていたが、
「ふふっ、そうかもしれませんね」
悪戯っぽい笑みを見せながらそんなことを言った。
「ええっ、ルリちゃんまでー。うるうる、そんなに頼りなかったかなぁ、私?」
「ふふふ。ユリカさんは先輩とか先生とかじゃなくて、面白いお姉さんって感じでしたから」
ショックを受けたといった様子でよろめいて見せるユリカに、ルリは笑みを含んだ調子で言葉を続けた。
アキト達もどこか懐かしそうな表情になる。
「ナデシコのクルーは、個性的なのが多かったからなあ」
「そうだったよね。それでルリちゃんに良く言われてたっけ」
「「馬鹿ばっか」」
二人は流石は夫婦のタイミングで見事にハモると、顔を見合わせて同時にくすくすと笑い出した。
「もうっ、二人ともからかわないで下さい」
ルリは顔を真っ赤にして言うと、照れ隠しのように続ける。
「そんなことより注文がまだでした。いつものヤツお願いします」
「ふふっ、テンカワ特製ラーメンですね?アキト、テンカワラーメン一つ、入りまーす」
「ハイ了解っ、テンカワラーメン一丁ね」
笑いながら、アキトは少し奥まった厨房の中に入って行った。
「ね、ルリちゃん。後輩ってどんな子なの?」
ユリカはテキパキと店の仕事をこなしながらも頻繁にルリに話しかける。久しぶりに帰ってきた家族に会えて、本当に嬉しそうだ。
「はい、マキビハリ君といってまだ11歳なんですけど、明るい、いい子ですよ」
どこか優しげな表情でルリは呟いた。早速先輩としての保護欲みたいなものが芽生えているようだった。
「ふーん、へぇ、ねぇ、ルリちゃん・・・?」
ルリのその態度が余程興味を引いたのか、途端チェシャ猫の笑みを浮かべるユリカ。
「な、なんですか?」
ルリはちょっと引き気味だ。この表情をした時のユリカは突発的な思い付きを口にするケースが非常に多かった。
それも、主にロクでも無い系統のものだ。
「ねぇ、今度そのハリ君って子連れてきてよー。見せて見せてー、ルリちゃんの後輩☆」
「は、ハーリー君をですか?」
途端輝くユリカの瞳。
「へぇー、『ハーリー君』ねぇ?」
にひひひ、とユリカは笑った。
「もう、なんなんですか、ユリカさんっ」
「ううんー、別にぃ、じゃあ、ね?今度連れて来てよ、『ハーリー君』っ☆」
「ユリカさん!!」
自らユリカに自分をからかうネタを提供してしまったことに軽い眩暈のようなものを覚えつつも、久しぶりに家族の元に帰って来たのだという実感をルリはその小さい胸(笑)一杯に感じていた。
「ほらユリカそのくらいにしとけって。ルリちゃん困ってるだろ?」
その時アキトが厨房の方から苦笑を浮かべながら出てきた。
「はい、お待ちどうさま。頑張ってるルリちゃんの為にサービスしといたから」
軽く微笑みながらカウンターにラーメンを置く。ユリカは少し意外そうだった。
「ええー、アキトは会ってみたくないのー?『ハーリー君』に」
「もう、ユリカさんっ」
まだじゃれ合っている二人の様子にアキトは笑いながら、
「誰もそんな事言ってないだろ?勿論会ってみたいさ。今度連れてきなよルリちゃん、そのハーリー君って子。ご馳走するからさ。」
と言った。ユリカも、我が意を得たりといった感じでこくこくと頷く。
「うんうん、おなかいっぱいご馳走しちゃうよ?」
「アキトさん、ユリカさん・・・」
ちょっとだけじわっときそうになりながら、ルリは箸を割った。
丁度、夕食時のお客さんがはけてお店の中が一時的な真空状態になったとき、ルリがおいしそうにラーメンを食べる様を隣に座って見ていたユリカが駄々をこねる子供のように言った。
「あー、やっぱりルリちゃんもいた方が楽しいよ。早く帰ってきてよぉ、ルリちゃん」
どちらが年上なのか解らないような、甘えた口調だ。
「そうそう、ルリちゃん本当においしそうに食べてくれるから張り合いあるし」
二人は、なんの気負いも衒いも無く、ごく自然にそう言ってのけた。
「だって、本当においしいですから・・・。でも、ユリカさん、アキトさん。そんな事言うんだったら早くお二人の子供の顔を見せてください」
実は、それがルリが今一人暮しをしている理由だった。
この貸し店舗兼住居に引っ越す際、アキト達は気を使うなと言ったのだが「私、まだまだ少女ですから」と解るような解らないような理由付けをして、引っ越してしまったのだ。
意外とルリは頑固な所がある。これと決めたら幾らアキト達が説得しようとしても、頑として聞かないのだ。
「俺達に子供が出来たら本当に帰ってくるんだ?」
アキトはどこか悪戯っぽい表情でユリカに目配せをした。
「子供だったら実は・・・」
ユリカはそう言って愛しげに自分の下腹をさする。
確かに良く見るとユリカの下腹部は大らかな膨らみを見せていた。
「ほ、本当ですか?・・・・・・ユリカさんアキトさん・・・おめでとうございま・・・」
ルリが感極まったような口調でそう言おうとしたとき、ユリカが自分で撫でていた下腹部が急に蠢いたかと思うと、薄桃色の塊が急にエプロンのポケットから飛び出した。
「え?え?え?」
一瞬何が起こったのか解らずに目を見張るルリの目の前に、ユリカがその塊を差し出した。
薄桃色の毛並の中に色違いの澄んだ輝きが二つ。
「これが私達の子供だよー、なんちゃって」
「・・・ユリカさん。だってこれって・・・」
それは、一昨日連れ帰ったあの仔犬だった。
「こ、子供って、この仔犬のことだったんですか?」
「うふふっ、そうだよー、可愛いでしょう?」
仔犬を指差しながら唖然としていたルリの指を、その仔犬が「どうしたの?」とでも言いたそうな表情でぺろりとなめた。
「一昨日、銭湯に行った帰りに裏山の神社の縁の下で震えてたんだ・・・それで、一昨日から新しい家族。」
楽しげに二人を見守っていたアキトが、まだ困惑気味のルリにその夜の顛末を告げる。
「そうだったんですか・・・もう、二人とも人が悪いです」
少し膨れた表情のルリに、二人は笑いながら謝った。
「はは、ごめんごめん。だってやっぱり家族は一緒に暮らしたいなって思ったからさ・・・」
「そうそう、だってお嫁に行っちゃったら、ルリちゃんだってお婿さんと一緒に暮らすことになるんだもん。せめてそれまでは、ね」
少しだけ遠い表情を漂わせつつも、悪戯っぽい笑みを浮かべた二人に、
「な、なに言ってるんですか、アキトさん、ユリカさん。離れていても、家族は家族ですよ・・・」
又してもルリは、不覚にもじわっときそうになったのだった。
もっとも、そのルリの言葉に実はアキトとユリカもじわっと来そうになっていたのだが・・・。
「そういえば、この仔の名前何て言うんですか?」
ユリカのエプロンのポケットから顔を覗かせていた仔犬を抱き上げたルリは、名前を呼びかけようとして自分がその仔犬の名を知らないことに気が付いた。
「うーん、実はまだ決まってないんだ・・・」
「この仔にぴったりくる名前、思いつかなくって。それに、ほら、一生のことだろ?」
アキトとユリカは顔を見合わせると、二人で微苦笑を浮かべた。
どうやら、この二日間はかなり真剣に悩んだらしい。
この分だと二人の実の子供が生まれたときはさぞかし大変だろうな。そう思うとルリは口元に微笑が浮かぶのを止めることが出来なかった。
「あぁっ、ルリちゃん何で笑うのぉー?」
「そうだ、ルリちゃんもこいつの名前考えてくれないかな?三人寄れば文殊の知恵って言うしさ」
「え?私がですか?・・・この仔の名付け親に?」
思わず腕の中の仔犬の顔をまじまじと見つめてしまう。
すると、自分のことを話しているというのが解るのだろうか、仔犬は色違いの二つの瞳でルリをじっと見つめてきた。
夕暮れと夜のほんの一瞬の境目の色を思わせる深い紺碧と、輝く太陽を思わせる黄金で。
「そういえばこの仔オッドアイなんですね」
「そうそう。一昨日家に帰って明るい所で見たとき、二人で驚いたんだよな?」
「お湯で濡らしたタオルで体拭いてあげたら、こんなにふわふわのピンク色になっちゃったしね。最初は灰色で埃っぽかったのに」
ポツリとルリが呟くように言うと、アキトとユリカはさも楽しそうに笑った。
「痩せっぽちで、大丈夫かな?って心配してたんだけど、ミルクも飲む飲む。意外と元気なお転婆だったよ」
「あ、ほんとだ、女の子ですね」
そのアキトの言葉に、ルリは仔犬を抱き上げると言った。
「うん、そうなの。ねぇ、どうかなぁ、ルリちゃん何か良い女の子の名前、思いつかない?」
「私だって名前なんて付けたことないですから、そんな急には・・・」
言いながらも、ルリは真剣に仔犬の顔を見詰めた。傍から見ていると、まるで仔犬と仔猫が睨めっこでもしているようで微笑ましい。
「うーん・・・あなたはどんな名前が良いですか?」
仔犬自身に問い掛けながら瞳を覗き込んだ時、ルリの脳裏を突然激しい既視感が襲った。
黄金の右瞳が、薄桃の滑らかな毛色が、心の奥底に焼き付けられた記憶を呼び覚ます。
『そんなことある筈がない』
打ち消そうとしながらも、口から漏れる言葉を止めることは出来なかった。
「・・・ラピス」
「うん、ラピス・・・可愛い、良い名前かもっ!」
思わず零れたといった感じのルリの言葉を耳ざとく聞きつけ、ユリカが早速賛成に一票を投じる。
「・・・え?」
自分でも口に出していたことに気が付かなかったのだろう、ルリはらしくない間を空け、呆けたような返事を返した。
「へえ、うん良いんじゃないかな。ラピスかぁ。・・・お前も気に入ったか?」
賛同を示すようにルリの指を舐めている仔犬の喉の辺りを撫でてやりながら、アキトはルリに笑いかけた。
「すごぉい、ルリちゃんにこんな才能まであったなんて。ね?私達の子供の名前考える時も手伝ってくれる?」
「あ、はい・・・」
どこか上の空で答えながら、ルリの脳裏には『遺跡』の模造品のオペレート試験中に消えてしまった少女の姿が浮かんでいた。
ひどく淋しがりだった少女の影が、仄かな痛みと共によみがえる。
ルリは暫く少しだけ遠い目をして仔犬を見つめていたが、一瞬その目が自分の瞳の奥に何かを語り掛けてくる錯覚がして、目を逸らした。
自分の中にまだ感情のしこりがあるから、そんなことを考えるのだ。
「ラピスかぁ、いい名前もらったな、おまえ・・・」
笑いながら、仔犬―ラピスの頭をぽんぽんと叩いているアキトの声が、ゆっくりと頭の中を通りすぎて行く。ラピスは目を閉じてされるがままだ。
彼女は消えてしまいたいほど淋しかったのだろうか?
ふとそんな疑問がよぎって、一呼吸の間に消えていった。
そんなこと、私に解る筈がない。
「・・・これ食べますか?」
小皿にチャーシューを一枚取ってラピスの前に差し出す。アキトの言っていたサービスの一つだろう、その大きさはラピスの頭程もあった。
「うーん、お肉はまだ早いんじゃない?」
少し考える風に口にしたユリカの心配をよそにラピスはくんくんとチャーシューの匂いを嗅ぐと、「私、これが食べたかったの」とでも言いたそうな勢いで齧り付いた。
「ははっ、意外に余計な心配だったみたいだな・・・」
愉快そうにアキトは言うと、時々ラピス用に薄味の料理でも作ってやることにしようと続けた。
「何か、人間は食べて良くても犬はダメな食べ物ってあったっけ?」
ルリは「さぁ」とでも言いた気な様子で首を傾げたが、ユリカは昔犬を飼っていたらしく幾許かの知識を持っていた。
「たしか、葱とか玉葱みたいなものはお腹の中にガスが溜まるからダメだって聞いたような気がする・・・・・・後は、濃い味付けはダメ、かな」
「ま、その辺りの事は後で調べとこうか」
ユリカの曖昧な記憶では尚頼りなげな感じが否めず、結局はそう言うことで落ちついた。
その間もはぐはぐと自分の頭程も大きさのある肉片に噛り付いていたラピスは、話がまとまる頃には、口の周りをスープで汚しながらもチャーシューを食べ切って、小皿を名残惜しそうに舐めていた。
「こいつ、やっぱりあの夜は猫かぶってたな?行儀が悪いぞ?」
紙ナプキンでその口の周りを拭ってやりながらアキトが楽しそうに言うと、ラピスは言葉の調子から自分のことを言われているのだと解ったのか、上目遣いで申し訳なさそうにアキトを見やり、その指をぺろぺろと舐めた。
アキトもお返しとばかりにラピスをひっくり返してお腹を擦ってやると、ラピスはくすぐったそうに身を捩る。
「ふふっ、どうすればアキトがご機嫌になるのかもう解ってるみたい。ルリちゃん、なかなか侮れないよ?この仔」
「ユリカさんこそ、思わぬライバル出現なんじゃないですか?」
顔を見合わせ、二人は同時に噴き出した。
「ぷぷっ、ね、ルリちゃんやっぱり帰ってこない?二人で強敵に立ち向かわなきゃ」
「そ、そうしましょうか?このままじゃ、家庭崩壊の危機です」
身を捩ってくつくつと笑いながら、二人はアキトとじゃれていたラピスを抱き上げる。
「こいつめ、何にも苦労しないで私の愛しいダンナ様に可愛がってもらえるなんて、羨ましいヤツだ」
「私だってより古くからの家族として負けませんよ?ラピス」
二人はそう言ってラピスの鼻面を突つくと、弾けるように笑った。当のラピスはきょとんとしていたが、その表情がまた可愛くて今度は三人で笑う。
どうやらテンカワ家には、梅雨を一足越えにして夏がやって来たようだった。
ラピスという仔犬が連れてきた、それは飛びきりの季節だった。
そうは言っても現実の季節はまだまだこれから梅雨真っ盛りといった様子で、少なくとも六月一杯はじめじめとした気候らしく、相変わらず壊れたまま調子が良くならない自宅の風呂を横目で見つつも銭湯通いの日々が続いていた。
何せ風呂釜の種類が古く店にもストックが皆無だったため、代わりの品物を取り寄せるのに時間が掛かっていたのだ。
ルリも結局テンカワ家に戻って来ることに決めたようだが煩雑な手続きがあるとかで、梅雨空と同じく今月一杯は宇宙軍の寮で過さざるを得ないようだ。
が、これまで以上にテンカワ家を訪れる頻度は増し、ラピスともよく遊んでやっていた。
アキトとユリカは、どうやらルリもラピスを気に入ったらしい様子に安心したが、今度は新しい問題に直面していた。
丁度、ラピスが来てから十日目の朝。
「ねえ、アキト。やっぱり数合わないよ」
ユリカがやや蒼褪めた表情で心配そうなアキトに告げた。
「うーん、やっぱりか・・・なにか他に無くなってる物はないか?」
ここ数日の騒ぎで寝不足なのか多少やつれた感じのするアキトが尋ねる。
「うん。今日も、お財布も通帳もIDカードも他の貴重品もちゃんとあるよ?」
ユリカは不思議そうに首を傾げた。
「なんなんだろうな、一体・・・貴重品には一切手を出さないで・・・」
「部屋の中を荒らした形跡も無いもんね・・・それなのに・・・」
二人は同時に首を捻った。
「「なんで、チャーシューなんて・・・」」
彼らのチャーシューは、何者かに狙われていたのだった。
二人がそれに確かに気付いたのは二日前のことだった。
それまでも何かおかしいと思ってはいたが、数え間違いか思い違いではないかと思っていたのだが、それも一度や二度でないと流石に気付く。
慌てて家中の貴重品やら何やらを確かめたが、しかしそれらには手を出していない所からすると単なる泥棒とも違うようだ。
そして今日は。
「丸々のを一塊だけか・・・どう言うことだ?」
訳が解らないといった調子でアキトが言った。
「全部持ってくとかならまだ解るけど・・・まさかアキトの味の秘密を盗みに来たとか?」
『天河』の味は、ご近所の奥様方の間でも割と評判だった。
曰く、『ご主人まだお若いのになかなかお上手ね。きっとあんなに若くても経験が豊富なのね』。
ということで、ユリカはそんな事を考えたのだが。
「だってそれなら一度来ればそれでいい筈だろ?それに戸締りはしてるし鍵を抉じ開けた形跡はないし・・・」
どうやらその選択肢も当て嵌まらない様だった。
「うーん・・・昨日はいつもと違う所に寝かせておいたんだよね?チャーシュー」
夜に下拵えを終えてから翌朝まで寝かせている短い間に犯行は行われていた。それならばと見つかりそうも無い所へ移したのだが効果は無かった。
「一昨日もだよ。普通わかんないぞ?あんなとこ。それにあんまりがさがさ音を立てて探してれば、俺達だっていいかげん神経高ぶってるんだから目も醒めるだろうし・・・」
「うーん、そうだよね?」
いい加減思考も手詰まりになって二人で途方に暮れていると、ようやく人並み(?)の体型に近付いてきたラピスが、二人に纏わりついてきた。
まるで、「どうしたの?何か心配事?私、力になれない?」とでも言いたげだ。
あくまで受け取るアキト達の主観が介在している。
それでも、いつもよりも纏わりついてくるラピスに二人はこの仔もきっと感情があるんだな、とやさしい気持ちになれた。
「お、ラピス、心配してくれるのか?ありがとな」
「ラピスは心配しなくても大丈夫だから、安心していつも通りにしてていーんだよ?」
二人の言葉と愛撫に、ラピスは甘く鼻を鳴らして答えた。
その日の深夜。
明かりのすっかり消え梅雨空のため星明りも差し込まない厨房は真の闇に近かったが、その厨房の中に二つの小さな灯りが輝いていた。
何処から進入したのかも解らないそれは、暫くの間迷うようにゆっくりと揺れていたが、やがて一直線に進み出した。
その方向には業務用の大きな冷蔵庫があり、灯りはその前でぴたりと止まった。
がちゃり
やや重い音を立てて開いた冷蔵庫の重厚な扉の間から淡い光が漏れる。
そこに浮かび上がったのは小柄な人間の姿だった。
反対の壁まで届かずに拡散してしまうような弱い光だったが、それくらいは解る。
その影はそっと両手を伸ばすと冷蔵庫の中から何かの塊を取り出し、一瞬その塊を見つめた後、貪るように食らいついた。
床にぺたりと腰を下ろし、前のめりになって齧り付いている。
そして、影が凄まじい勢いで塊を一気に半分以下にまで減らしようやく一息ついた時、
ぱちり
小さい音と共に、厨房の中には煌煌とした光が満ちた。
「ようやく尻尾を掴んだぞ、チャーシュー泥棒っ!!」
「寝不足はお肌の天敵なんだからね。ユリカぷんぷんだよ?」
「「・・・って、あれ?」」
二人の前に姿を現したのは。
明かりの中に小柄な姿を浮かび上がらせたのは。
一糸も身に纏っていない少女。
しかしその体は。
薄い桃色のやわらかそうな髪。
左右で色違いの大きな瞳。
垂れた大きな耳。
ふさふさした尻尾。
そして、口の周りに肉汁をべったりとつけたお行儀の悪さは。
「「・・・・・・まさか、ラピス?」」
驚愕の表情で振り向いていた少女の体がびくりと震える。
「やっぱり・・・」
ユリカが呆然と呟いた。
どうりで外部からの進入の形跡も無い筈だ。
犯人は家の中にいたのだから。
何処に隠してもばれる筈だ。
相手は人を遥かに凌ぐ嗅覚を持っているのだから。
そう、ラピスは犬だった筈だが、ユリカの頭はそんなことは違和感も無く受け入れた。
この仔は「あの」ラピスだ。
一方アキトは少し違っていた。
「年取った猫が化け猫になって行灯の油舐めるってならまだわかるけど、まだほんの仔犬のラピスが化け犬になってチャーシュー貪り食ってるなんて・・・」
この少女が「あの」ラピスだと言うことは漠然と理解できるが、もはや唖然として何を言ったらいいのか解らないとでも言いたげな様子だ。
その割にはやけに喋っているが。
とにかく、二人ともこの目の前の少女が、「あの」ラピスであるということだけは、なんとなく理解した。
ラピスはまだ動かない。
床にぺたんと腰を下ろし、両手には食べ欠けのチャーシューを持ったままだ。
文字通り(!)犯人の尻尾を掴んだ形になったのだが、アキト達は何を言うべきか分からずにいた。
そぅっ・・・
その時ラピスがそっと立ちあがった。
「ラピス」
反射的に声を掛けるアキト。
ラピスは再び体をびくりと震わせると、アキトの方をそっと伺った。
しかし、アキト自身にも、その後に何を続けるべきか、まだ良く解らなかった。
いや、いつか解るとも限らないが。
とにかく、アキトは正論で責めることにした。
犬でも人でも躾は小さい内にしておかないとお互いの為にならない。筈だ。
「・・・あのな、ラピス。お前にもちゃんと食事をやってるだろ?」
犬としてのラピスに言えばいいのか、それとも化け犬として人間っぽい姿をしているし、人間として言えばいいのか少し頭が混乱して、やや強い緊張した口調になってしまった。
ラピスが再び体を震わせる。
元から垂れている耳が、尚一層力なく垂れて行くようだった。
「・・・・・・あ、あ、あ」
ラピスは何か口にしようとしたようだったが、その声はあまりにも訥々としていて、またとても小さかった為に、こういうシチュエーション自体に慣れておらず、また今回の状況の特殊性にうろたえていたアキトの耳には届いていなかった。
「えっとな、この焼き豚は、店で出すラーメンのために作ってるんだ。お客さんに美味しいラーメンを食べてもらいたくて一生懸命作ってるんだよ。わかるか?」
徐々にラピスは項垂れて行く。その唇は何か言おうと必死で震えていたが、どうしてもそこから言葉は紡がれなかった。
アキトの方は、『ああ、ちゃんと解ってくれているんだ。良かった』と、そんなことを思いながら、ラピスにきちんと知っておいてもらおうと、こちらはこちらで必死だった。
「それでな、お腹が空いた、とかそういう理由でいちいち自分で食べてたら、お客さんに出す分が無くなっちゃうだろ?」
なんとかラピスに解ってもらおうと話しているうちに、言葉に熱が篭って行く。
それに比例するように、ラピスの表情には昏い何かが白い布に落としたインクの染みのように広がって行った。
「朝まで我慢できないか?もし出来ないなら・・・」
アキトが、それが絶望の色であることに気付く前に。
アキトが、それなら何か作ってやるからチャーシューを勝手に食べるのは止めなければいけないと、そう続ける前に。
すっ・・・
「・・・・・・」
ラピスが食べ掛けのチャーシューを両手でおずおずと差し出した。
「え?あ、あのな、ラピス、そんな、食べかけを返してもらってもな・・・」
苦笑交じりでアキトが続けようとした時。
「・・・・・・ごめんなさい」
消え入るような声でそう呟くと、ラピスは弾かれたように振り向き駆け出していた。
「あ、おい、ラピスっ!!」
走り去るラピスをアキトは慌てて呼びとめようとしたが、その時にはラピスは既に裏口から表に飛び出した後だった。
「ラピスっ、待って!」
先に走り出したのはユリカだった。
アキトもはっとしたように後に続く。
裏口から表に飛び出して左右を見渡すと、丁度、街灯の光の輪の中に雨の中傘も差さずに走る小さな影が見えた。が、直後、その人影が仔犬のそれに変わり夜の中に消えて行く。
二人は傘も差さずに雨の中走り出した。
「もーっ、アキト。だめだよぉ、お説教するんだってちゃんとラピスの話聞いてあげてからじゃなきゃ」
横目でアキトを捉えつつユリカが言う。ユリカはそういう所は意外と大人だったりするのだ。
「済まない。なんか、少しうろたえてたみたいだ」
ユリカに走る速さを合わせながら、アキトも反省の色を言葉に滲ませていた。
「アキト、私じゃなくてラピスにあやまんなきゃダメだよ」
「だな。その為にも、まずはラピスを探さなきゃ」
二人はラピスの影が消えた辺りの分かれ道に辿り着いたが、その先にラピスがどういう道を辿ったのか、痕跡はまるで残っていなかった。
「仕方が無い、手分けして探すぞ?」
「うんっ、解った。じゃあ、ユリカはあっちを探してみるから、アキトはそっちお願いね?」
二手に別れると、アキトとユリカは再び走り出した。
アキトは近所の公園や何時もラピスを散歩に連れ歩いている河川敷を回った後、再び自宅に戻ってきていた。
万が一にでも、ラピスが自宅付近に戻っていることが無いかと思ったのだ。
しかし、家には灯りも付いていなかったし、誰かが帰ってきた形跡も無かった。
「くそっ、何処行ったんだ、ラピス・・・」
小さな溜息と共に呟きが零れる。
やや心配そうな目でアキトが厚い雲が雨を降らせ続ける梅雨空を見上げた時、何かが聞こえたような気がした。
「ん・・・?」
アキトが慌てて耳を澄ませるのと同時に、今度はよりはっきりとその声が聞こえた。
・・・・・ああおおおう。
「ラピスっ」
その遠吠えが、あの仔犬のものであることを寸分も疑わずに、アキトは一直線に駆け出した。
勿論今度は傘を持つことも忘れない。
この傘大きいからな、十分に三人でも入れるさ。
そう思った。
場面は少し遡る。
ユリカは、暫く市街地近くを探した後、ある直感を持って来た道を引き返していた。
彼女の脳裏に浮かんだのはラピスが捨てられていたあの社だった。
何の根拠も無いと言ってしまえばそれまでだが、そもそもあの出会いだって偶然。
今も同じように、今もそこにあの仔犬は震えているのではないかという自分の直感は、最早ある種の確信となっていた。
ちょっとした長さの石段を何かに急きたてられるように駆け上る。
ユリカの中では今、ラピスの行動に対するある種の共感のようなものが感じられていた。
決して単なる同情ではない何か。
そんなに淋しかったのか。
そんなに満たされなかったのか。
そんなに不安だったのか。無意識の内に試さずにはいられないほど。
今ラピスは私達に選ばれなかったと思っているのかもしれない。
だけどそれは本当は逆。
このままでは、私達がラピスに選ばれなかったことになる。
あの仔は、ラピスは家族だ。
帰って来て。
一人で淋しさに震えるなんて、つまらない。
一緒に歩こう。
私達の居場処。
それは、ユリカの中から湧き上がる偽らざる声だった。
石段を飛ぶような勢いで上りきり、左右に視線を走らせる。しかし、そこにラピスの姿は無かった。
一瞬落胆しかけたが、軽く頭を振るとユリカは歩き出した。
多分あそこだ。
それは確信に近い予想だった。
そして予想通りユリカは、あの夜ダンボールがあった辺りで蹲っている小さな影を見つけた。
ユリカの後ろ、数メートル離れた所に立っている常夜灯の灯りが、ラピスの桃色の髪をぼんやりと浮かび上がらせている。
いや、むしろその様子は夜の中に沈み込みそうな危うさが漂っていた。
雨に打たれながら微動だにしないその姿は、何かに必死に耐えているようでもあり、周りの全てを拒んでいるようでもあった。
ざっ・・・。
それでも一歩踏み出したユリカ。
ラピスはのろのろと頭を上げた。
「・・・・・・・・・」
しかしその瞳にはいつもの精彩が無く、ユリカの方を向いていても焦点はまるで合っていなかった。
或いは逆光で相手が誰なのか解らなかったのかもしれない。
「ラピス・・・こんな所で蹲ってると風邪引くよ・・・?」
そのユリカの言葉にようやく相手が誰であるかを理解したのだろう、ラピスの瞳に一瞬喜びの色が浮かんだが、しかしその光はすぐに昏い影に塗りかえられた。
「・・・・・・・・・」
ラピスは無言で立ち上がり後ずさりして行く。
まるで高熱にでも侵されている様に、全ての動作が緩慢だった。
「ラピス、帰っておいでよ・・・・・・」
ユリカはそう言って手を差し伸べたが、ラピスはその手とユリカの顔を見比べるばかりで動こうとはしない。
「ね、おいで・・・アキトもユリカも怒ってなんかいないよ・・・」
ユリカはそう言って更に歩み寄ろうとしたが、ラピスはユリカが歩み寄った分だけ後ずさり、距離は縮まなかった。
「・・・・・・・・・」
ふるふる・・・
ラピスは力なく頭を振る。
「どうしたの?」
ユリカはその怯えた小動物のような仕草を見て、それ以上近付くことを諦めた。
暫く沈黙したままユリカと向かい合っていたラピスは、何度も口を開きかけては閉じると言う動作を繰り返していたが、やがて覚悟を決めたように言葉を発した。
「・・・・・・ごめんなさい」
「謝ることなんて全然ないんだよ?仔犬用の量じゃ、人間サイズのラピスには足りなかったんだよね?・・・・・・ラピスは家族だもん」
ユリカは穏やかな声でそう返したが、その言葉にラピスは又しても頭を振った。
ラピスは自分の肩を抱くようにして震えていた。爪が食い込む程力を入れているのが見て取れる。
「聞かせてくれないかな?ラピスが考えてること・・・」
「・・・・・・・・・」
ユリカは腰を落として、ラピスに視線を合わせようとした。
きつく唇を噛み視線は地面の一点に落として微動だにしていなかったラピスが、突然、吼えた。
「ああああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおううううう」
聞いている方の胸が張り裂けそうな、哀しげな遠吠え。喉も裂けよとばかりに、ラピスは吼えていた。
自分でもどうしていいのか解らないのだろう。
生まれて始めての感情の爆発。
きつく目を閉じて、自分の肩に爪が食い込むほどきつく自分を抱きしめて、ラピスは吼えていた。
受け入れたいのに、受け入れられない。そんなもどかしさ。
すっ・・・
「・・・・・・ぇ?」
ユリカはそっとラピスの頭を抱いていた。
「・・・ねえ、ラピス。ラピスはずっと淋しかったんだね・・・」
ラピスは何も言わず、ただ肩を震わせていた。
ユリカは敢えて答えを求めることはせず、優しく髪を梳いてやりながら言葉を続けた。
「怖かったんでしょう?一人ぼっちに戻ること、嫌われてしまうこと、捨てられてしまうこと・・・」
ラピスがぴくりと体を強張らせたのが、ユリカの指先にも伝わってきた。
「わかるよ?アキトも、ユリカも、ラピスのその気持ち・・・」
自分の中で、この酷く臆病になってしまっている少女に対する愛おしさが込み上げてくるのを感じながら、ユリカはラピスの心を映したような優しい素直な髪を、強張った肩を撫で続けた。
「いつか、アキトが話してくれたんだ・・・自分は小さい頃に両親をなくして、独りぼっちになったって思って」
その時のアキトの目を思い出して少しだけじわっときそうになる。
「そしたら、凄く淋しくて、乾いて、ヒトの優しさが欲しいのに、その人を試すようなことをしちゃうんだって、無意識のうちに・・・そんな自分がイヤになったこともあったって」
だけど、今アキトの目は、限りなく優しい。
ユリカは、今の自分もあの優しい瞳の十分の一の優しさでも映していればいいのに、と思った。
この少女の心を自由に解き放ってやりたかった。
「だけどね?いいんだよ、ラピス。誰だってそうだもん。それに、ラピスはそれだけじゃないんだよ?私達にたくさんたくさん優しい気持ちをくれるんだよ?」
そのユリカの言葉に小さく頭を振るラピス。
どんな気持ちでここまで走ってきたのだろう、あの夜のように泥だらけになったラピスの体は、小さく震えていた。
「ほんとだよ。ラピスが来てくれて嬉しかったし、楽しかった。帰ってきてくれないかな?それともユリカ達じゃ、ラピスの家族には役不足?」
ラピスはまた頭を振った。今度はさっきより少しだけ力強かった。
ずるい質問だろう、だけどユリカは思う、ラピスが帰ってきてくれるなら幾らだってずるくなろうと。
この少女が自分達に運んできてくれた、ルリがいたときとも二人で暮らしていたときとも違う穏やかなやさしさに包まれた生活が、ユリカはとても好きだった。
二人きりになれる時間は減ったが、そのかわり三人で過す時間が出来た。
これでルリが帰ってきたら、どんなに自分達は嬉しいか知れない。喜びは分かち合えば増えて行くと言うのは、本当だと思う。
たった十日程度の生活だし、血も繋がりも無かったが、自分達は確かに家族だった。
「ね?お願い、帰ってきてよー。らぴすぅ」
思いっきりぎゅっと抱きしめて、ちょっとだけおどけたお願い口調で言うとラピスは
こくり・・・
ようやく頷いてくれた。
「やったぁーっ!嬉しいな。帰ったら、ラピスの為にとびっきり美味しい料理作っちゃうよ?」
ユリカはラピスの手を取ってぴょんぴょんと回りながら飛び跳ねた。
ストレートな感情表現に、ラピスは振りまわされるようにぐるぐると回りながら、少しだけ恥ずかしそうに、嬉しそうに、笑っていた。
二人で泥を跳ねながらぐるぐると回っていると
「るぅあああああああああおおおおおおおおおおおおおおううううううううううう」
今度は喜びを込めて、ラピスが遠く叫んだ。
目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「ふふふっ。ああああああああああああああああああああああああああああ」
ユリカも一緒になって叫ぶ。
こちらは満面に笑みを浮かべて。
だけど、少しだけその目は赤い。
二匹の喜びに震える美しい獣は、ご近所の迷惑も顧みず夜の山に吼え、舞っていた。
「ラピスっ、ユリカっ」
その時、アキトが軽く息を切らせながら走ってきた。
余程慌てて何度も転んだのか、傘を持っている割には全身が泥塗れだ。
「あ、アキトっ、あはは、どうしたの?そんなに泥まみれで」
ユリカはようやく輪舞を止め、アキトを満面の笑みで迎えた。
「こ、これはちょっと・・・ってユリカこそドロドロじゃないか。それにラピスも」
確かに、二人とも泥を跳ねながらぐるぐると回っていたため酷く濡れそぼっていた。
特にラピスは一糸も纏っておらず、幾ら初夏の気温とはいえ余り体には良さそうではない。
そのラピスは、ユリカの後ろに体半分隠れるようにして、少し恥ずかしげに俯いていた。
もっともそれはアキトも同じで、どこか照れたような気まずさで頭を掻きながら、最初の一言をどう切り出すべきか迷っているようだった。
「ああ、ええと、だな。ラピス。さっきはちょっといきなりな展開だったんで気が動転してな・・・」
「あ、その、えと・・・・・・」
そんな二人の様子に、ユリカは含み笑いをもらしながら助け舟を出した。
「ほら、アキト。ラピスにごめんなさいは?そんなことも言えないんじゃ、ユリカはラピスと一緒に実家に帰っちゃうよ?」
勿論冗談だ、が、アキトはそれでようやく切り出す切っ掛けを得られた。
「すまないラピスっ。頼むから帰ってきてくれ」
ぺこりと頭を下げたその姿は濡れ鼠の状況と相俟って、まるで妻子に逃げられた男やもめのようで、ユリカはぷっと噴き出した。
「・・・・・・うん」
ラピスは小さな声で、しかしはっきりとうなずいた。
「これからも俺が作った料理たくさん食べてくれよ。あそこまでイイ食べっぷりなのは、ラピスだけだからさ」
お辞儀をしたまま顔だけラピスの方に上げ、不器用に片目を瞑って見せる。
「・・・・・・うん」
そのウィンクはぎこちなかったが、アキトの笑顔は自然に素敵で、思わずラピスも顔を赤らめながら微笑み返した。
もしかしたら、食欲の旺盛さを指摘されて恥ずかしかったのかもしれないが。
「よーし、仲直り完了っ。それじゃラピス、しょうがないから帰ってあげますか、アキトの処に」
「ふふふっ、うん、ユリカ」
鷹揚にうんうんと頷いて見せるユリカの腕にしがみ付きながら、ラピスは飛びきりの笑顔を浮かべてみせた。
そのラピスが新しく見せた新鮮な表情に、アキトもユリカも本当に嬉しそうな表情で笑いあった。
「それはありがとうございます、お姫様方。狭い処ではございますが、狭いながらも楽しい我が家と申します故に、平にご容赦の程を・・・」
笑顔のアキトにユリカが思いっきり抱きつき、ラピスもその二人に抱きついた。
アキトはそんな二人を両手で受け止めると、きつく抱きしめた。
雨は今も三人に降り注いでいたが、その雫は三人には誰かを凍えさせるものではなくて、新しい命を育む恵みの雫だった。
「さ、帰ろう?このままじゃ本当に風邪引いちゃうよ、ラピス」
「うん」
「だな。傘も持って来たことだし。まあ、こんなに濡れちゃ意味も無いかもしれないけどな」
笑いながら傘を広げたアキトに、ユリカは器用にウィンクしてちっちっちと指を振って見せた。
「違うよ、アキト。これは三人のアイ・相合い傘なんだだもん。すっごい意味があるんだから」
その笑顔は、アキトとラピスには、世界中のどんな花よりも美しく心に染みて、何時までも響いていた。
梅雨空が絶え間なく降らせる絹糸のような細い雨の中を、鮮やかな赤い色の大きな傘の下、一組の男女とその間に挟まれるようにまだ幼い少女が寄り添うようにゆっくりと歩いている。
ぼんやりとした街灯の明かりに照らされて暗い夜の中灰色に煙っている世界の中で、そこだけが鮮やかな色彩を有していた。
三人は或いは雨に濡れ、或いは泥に塗れていたが、とても幸せそうだった。
青年は、隣を歩く二人が雨に濡れないように傘を傾け、女性はそんな青年を濡らさぬように寄り添い、そして、新しい家族になった少女は、ひどく大きな男物のジャケットを羽織って、その二人の腕に精一杯に腕を絡めてしがみ付いていた。
三人に言葉はなかったが、三人とも満たされた笑顔をしていた。
何時までも止む気配を見せない雨の中、三人はゆっくりと歩いていた。
彼らの場所、狭いながらも楽しい我が家に。
街灯の灯りを受けて、赤い傘が仄かに輝いて見えた。
後書き
おめでとーユリカたん☆
どーも、こんばんわ。欅です(^^)
難産でした。
意地でもラピスを絡ませると言うことは考えたんですが、どうすればいいのか解らない(^^;;;
それで、なんとかおちついた形がこれです。
題して、いぬぶりーだーず(笑
もっとジオブリちっくに行こうと思ったんですが、途中で路線変わりましたけど。
最初はもっと○○な話になる予定だったんですが・・・(笑
とにかく、ハッピーエンドのファミリードラマとなりました。
これがユリカたん祭りにふさわしいかは、わかりませんが(らぴマニアとしては、十分ハッピーだと思うんですが)(^^;;;
書いてて思ったことは、「やるな、ユリカ」です(^^)
行き詰まってたことは、全てユリカたんが解決してくれました。構成変わりましたけど(笑
自分の中でユリカたんポイントアップです(*^^*)v
さて、何はともあれユリカたん祭り開催おめでとうございます、成瀬さん(^^)
らぴらぴ祭りもよろしくね(爆)
じゃ、なくて、これからも頑張ってくださいな(^^)v
ここまで冗長な文章に付き合ってくださった読者の皆様、ありがとうございましたm(_)m
出来ますれば、ご指摘、感想のメールなど頂ければ嬉しく思います。
でわでわ。
欅 keyaki_tuki@geocities.co.jp